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玉木宏樹(代表) 作曲家・ヴァイオリニスト

ミーメーシスについて/黒木朋興

 ミーメーシスとは何か、という話をします。一見音楽に関係ないかのように思われるかも知れませんが、近代以前の西洋芸術のあり方を理解するためには、是非とも知っておかなければならないことと考えるからです。端的に言えば、ミーメーシスとはギ リシア語で「模倣」という意味です。と、こう日本語で訳語を当てると、本物に対し て紛い物みたいな感じがして、否定的な印象を拭い去ることが出来ませんが、ミーメー シスとは単なるコピー=複写ではなく、「本質的なるものの再現」と言った方が良い でしょう。更に、芸術がミーメーシスの原理に基づくという時、芸術創作とは「より 真なるものをこの世に出現させるための営為」ということなります。
 この概念はプラトンやアリストテレスの哲学の中でも重要な位置を占めますし、また西洋人が西洋の伝統という時、古代ギリシアまで溯って考えることが普通なのですが、ここでは古代ギリシア・ローマ文明と現在の西洋文明の間には断絶があるという 立場から、あくまでもキリスト教文明を中心に据えて話を進めることにします。もちろんキリスト教に対するギリシア哲学の影響を認めないというわけではありません。

 キリスト教思想というのは、基本的に「あの世」と「この世」という厳密な二項対 立を想定している、と言っても過言ではないでしょう。当然、「この世」とは我々人 間が住んでいるこの世界のことであり、「あの世」とは神の統べる世界のことです。
気を付けて欲しいのは、日本語で「あの世」と言えば魑魅魍魎の跋扈する何だか妖しげな世界のことを思い浮かべる人も多いことかとは思いますが、キリスト教にとっての「あの世」とは物事が理想的なまでに理路整然としてある「本質」の世界です。キリスト教の神とは、ロゴス=理性・言葉の神であることを思い出しておきましょう。
そして芸術の役割とは、「あの世」の理想的な美を「この世」の人々に提示することなのです。あるいはそのような美を「この世」において「再現」しようと務めることに芸術の価値があるということでもあります。

 でも一体この「本質」とはなんでしょう? ここではbe動詞のことを考えてみましょう。そもそもbeとはどういう意味でしょうか? まず最初に挙げられるのが 「いる・ある」という意味です。例えばThereisapen.(ペンがあります。)という例 文が考えられます。つまりexistenceの意味であり、この語は「存在」とか時には 「実存」とか訳されます。それに対して、Thisisapen.のbeはどういう意味でしょう?
 多くの人が「です」と答えるのではないでしょうか? 学校でそう教わるのですか ら仕方がないのですが、かなり不適切な訳であると思っています。では何かと言えば、 このbeはイコールなのです。ですからこの文は「これ=ペン」ということになり、 これを普段我々が使っている日本語で言うと「これはペンです。」あるいは「これは ペン。」という意味になるというわけです。さて、このbeはラテン語で何に当たる かというと、esseになります。そしてこのの名詞形がessenceであり、つまり「本質」 です。この「本質」目指してイコールで結んでいく論理の体系のことを神学といい、 また暗喩という文彩はイコール関係に基づくレトリックだと言えましょう。

「この世」は不完全です。ですが、というかだからこそ、学問なり芸術は、たとえ手 にしているのが不完全な材料ばかりだとしても、それをどうにかしてでも組み合わせ て「本質」の世界へと迫らなければなりません。つまり「この世」と「あの世」の間 のイコール関係、あるいは照応関係を探る営みこそがミーメーシスであると言えましょ う。

 では次にこの2つの意味が混同されて用いられた場合に引き起こされる問題につい て考えてみましょう。
 例えば、幽霊やUFOがいるかいないか、という議論があって、テレヴィなどでも賛 成派と反対派に別れて論争を繰り広げる、といった番組が時々放映されます。しかし、 ほとんど言って良いほど、この手の議論は決着がつかず、終いには喧嘩になって終わっ てしまいます。口に泡を飛ばしている当事者の方のほとんどが意識していないことと は思いますが、このような場面で生じる議論のずれといったことは、まさしく「本質」 と「実存」の間の問題なのです。つまり、「いる」という賛成派が「本質」の、対し て「いない」という反対派は「実存」の議論をしている、ということです。
 賛成派の人々は「いる」ことの根拠として、「この私が直接見た、あるいは直に体 験した」ということを挙げます。そしてそのことの証明のために、写真を取ったりヴィ デオを見せたりします。そうして「自分が体験したこと」を熱く説明します。この説明とはどういうことなのかについて考えてみましょう。これは「自分が体験したこと」 という事実なり真理をイコールで繋いでいくという行為である、とは言えないでしょ うか。例えば、現実に起こったことと写真なりヴィデオの内容が完全にイコールで結 ばれるのなら、証明は成功したことになります。ところが反対派は写真なりヴィデオ なりはあくまでも複製だからと言って、つまり二次的なものに過ぎず事実そのもので はないと言って否定します。時には「インチキだ!」とか、「後から手を加えてあるはずだ!」とかも言ったりします。ですから賛成派は今度は言葉を使って懸命に、修正などは一切していないことを、自分は嘘などついてはいないと言い出します。すな わち、彼等の説明においてはイコールの整合性が焦点となっているわけです。その意 味で、彼等は「本質」の議論をしていることになります。対して、反対派は何を言わ れても、何を見せられても、信じません。何故なら彼等は端からイコールの部分など 見ていないからです。彼等が問題にしているのはあくまでも「実存」で、そんな「いかがわしいもの」は最初から「実存」しないと言っているのです。最終的に賛成派は 「オレは嘘などついていない。このオレが信じられないのか!」などと言い始めます。
対して反対派は「自分がうまく証明できなかったことを棚にあげて、何を言い出すか!」と切り返します。こうなってくると興奮が興奮を刺激し、単なる罵り合いへと落ちいきます。
 同じテーマを議論しているにもかかわらず、片方は「本質」の、そしてもう片方は 「実存」の話をしているのでまったく議論は噛み合わないのですが、深刻なのは、多 くの場合、当事者達がこのずれを意識していないということです。これが幽霊とか宇 宙人に関する議論であればまだ可愛いものでしょう。しかし「民主主義」とか「神」 とかであったらどうでしょうか?笑い事ではすみません。何故なら未だもって人類は、 この種のテーマで議論をこじらせ、時には殺し合いまでしてしまうからです。

 西洋の言語の特長は、この「本質」と「実存」を同じ動詞でもって表せることだ、 と言っても過言ではないでしょう。このことは神学を始め、哲学・文学・芸術など、 キリスト教文化のすべての基礎となっています。対して、我々の日本語には、イコールの意味を持つ動詞はありません。実は旧約聖書の言葉、ヘブライ語にもやはりない そうです。ここで新約聖書はイエスの死後、ギリシアの信徒によってギリシア語で書かれた、という事実を確認しておきましょう。つまりイコールの意味の動詞を持たないヘブライの民の宗教とそれのあるギリシア哲学の出会いこそが、ヨーロッパキリスト教文化の礎を形成した、ということです。

 今までの議論をまとめれば、「本質」の探求とは「あの世」と「この世」を「=」 で繋いでいくことなのに対し、「実存」のほうは「いまここにある」物事だけに焦点 をあて、この「ある」ということがどういうことかを分析していくことだ、と言えるでしょう。
 「『実存』は『本質』に先行する」。言わずと知れたサルトルの有名な台詞です。実存主義が流行った時代には、様々な解釈が試みられ、それぞれがそれぞれの思いをこのフレーズに投影していったようではありますが(それが必ずしも悪いことではないと思います)、今まで述べてきた「本質」と「実存」の話にこの台詞をおいてみれば、サルトルの真意が何とはなしに見えてくるでしょう。つまり、「神」を中心に据えた思想体系への彼特有の反抗の念がこの台詞には込められている、ということです。
 「神」の国にある筈の理路整然とした美しい「真理」、あるいは、「あの世」を持ち出すのがいかがわしいというのなら今ここ目の前にはないけれどどこかには必ずあるだろう完璧な「美」、これらを模倣しようというのがミーメーシスの原理であるということは前々回見た通りです。モダン以前における芸術の役割とはまさにこの「理想」をこの世の人々に提示することであった、ということも良いでしょう。そして、
この「理想」と「現実」の従属関係を断ち切り、ひたすら今ここ目の前にある物質に焦点を当て、そのある姿を分析していくのが実存主義ということになります。また、理想の美を目指すのではなく、自らの感性を便りにこれらの物質を組み合わせ作品を創っていこうというのが19世紀末フランス象徴主義以降のモダン芸術のあり方でもあるわけです。
 ただし気を付けておきたいのは、このようなミーメーシスの原理を超克しようとする発想は、実のところ、18世紀末から19世紀初頭にかけて初期ドイツロマン主義者達の間で夢見られたということです(もちろんこの発想の源流はフランス18世紀ルソーや17世紀のボワローまで溯ることも可能でしょうが)。彼等は当時盛んに作曲された交響曲の響きにその夢を投影します。あるいは彼等の理論は純粋器楽作品の開花という実際の現象に支えられている、とも言えるでしょう。当然、ここで俎上に上がっているのは、「絶対音楽の理念」のことです。「絶対音楽」とか「純音楽」とかいうと、人それぞれにいろいろと思うところもあるでしょうし、実際いろんな解釈が可能だとは思いますが、最も重要なのは、この理念が芸術をミーメーシスの原理から切り離し解放しようとした、ということです。こう書くと何やら難しそうですが、何のことはない、音を「神」、宇宙、真理や感情など他の概念の比喩・暗喩として捉えるのではなく、音を音として、モノをモノとして扱う、ということです。僕らのようにキリスト教徒でないものから見れば当たり前に思えることですが、長い間西洋キリスト教の世界では、芸術の役割とは真理の模倣(ミーメーシス)であり、このことが彼等の文化の強力な特徴をなしてきたということを再度確認しておきましょう。
 ここで「絶対音楽」の唱道者として名高いハンスリックの一節を引用してみたいと思います。

「一枚の歴史画においてあらゆる赤が喜びを意味したり、あらゆる白が潔白を意味するとは限らぬと同様。一つの交響曲においてすべての変イ長調が熱中的気分を、すべてのロ短調が厭人的な気分をよび起こすというわけではない。あらゆる三和音が満足をあらゆる減七和音が絶望をよび起こすというわけではない」(『音楽美論』、渡辺護訳、pp.42-3.)

 例えば「メジャーキーは〈楽しい感じ〉、マイナーキーは〈悲しい感じ〉がするという意見があるが、どうかと思う。メジャーキーはメジャーキーを、マイナーキーはマイナーキーを表現しているだけなんだ」と言う人がいますが、つまり、このような見解はまさに「絶対音楽」の延長線上にあるものだと言えるのです。もちろんここでは、この見解が当たっているか、間違っているかということを問題にしているわけではないということを言い添えておきます。

(続く)


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