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玉木宏樹(代表) 作曲家・ヴァイオリニスト

現代音楽は1976年に既に死んでいた/玉木宏樹

ここに1枚のCDがある。アルヴォ・ペルトの「アリーナ」(ECMNewSeries1591, POCC1062/日本発売元:ユニヴァーサル・ミュージック)だ。今日はこの話である。

いわゆる現代音楽といっても,広義には,すべての現在の音楽シーンのことだともいえるが,ここでは狭義の「現代音楽」を話題にする。で,狭義の「現代音楽」とは何か?それは,クラシック系作曲家の現代作品のことを指し,それも親しみ易いメロディやハーモニーを基にした分り易い曲ではなく,難解を旨とする(何回聴いても分らない)不協和音の連続で,大概の聴衆には苦痛を強いるだけのやっかいな曲が多い。

誰が音楽をダメにしたのか

時代は大体,1910年頃から,シェーンベルクが無調音楽(調性のない音楽を始め,ストラヴィンスキーは「春の祭典」で激しいバーバリズムをバレエに持ち込んだ。これ以後,クラシック系の音楽は一挙に様変わりし,シェーンベルクが12音音楽の手法を確立するに至っては,時代は一挙にメロディとハーモニーを放棄した騒音的な音楽が主流となっていった。

そして,1930年代になると,後期ロマン派の生き残りの作曲家も姿を消し,ドテン・バタン・グショーンの無調音楽が全盛となる。当時の風潮としては,分り易い曲を書くと完全にバカにされ,そういう指向の人は,ジャズ系に走ったようだ。

なぜ音楽がそういう風になってしまったのか。一つには,作曲至上主義がはびこり,演奏家より優位に立とうとする作曲家の傲慢が,演奏不能,理解不能の風土を育てた。そしてもう一つは,純正律と平均律の問題が横たわっている。

ピアノ用に簡便な(1回の調律で済む)平均律の調律を施したピアノが工場出荷したのが1842年といわれ,それでも最初のうちは,プロからは全く無視されていた。オクターヴ12鍵のピアノに対し,前期ロマン派の作曲家たちは,ヴェルクマイスター,キルンベルガー等の不等分調律を駆使して作曲していたが, 1890年頃から,プロの作曲家,ピアニストたちも殆ど平均律に屈するようになる。独学で作曲の研鑽をしていたシェーンベルクは,アマチュアのチェロ奏きだった。つまり,音程を自分でコントロールしなければいけない立場である。ピアノやオルガン等は調律師がピッチをコントロールし,演奏者はピッチに対し,無関心で,無神経である。

シェーンベルクは調性を愛した

平均律の跋扈は,ハモる美しさをないがしろにする。ハモらない調律で調性音楽(これは純正のドミソを基礎にしている)をやる矛盾を,チェロ奏きだったシェーンベルクは猛烈に自覚し,オクターヴを単純に12分割するだけなら,各音に差別のない,つまり調性にとらわれない方法論を考案した。私は,シェーンベルクほど調性を愛した人はいなかったんじゃないかとさえ思う。彼の和声法の本は,驚くべき内容だし,初期の「浄夜」なんて,調性音楽のひとつの頂点だとさえ,いえる。その彼が12音技法を編み出したのは,平均律に対するアンチテーゼではなかったのか。平均律の特長は,後期ロマン派の爛熟した転調多用に対応できる唯一の調律法と認識されたからであり,その転調多用の調律を逆手にとり,ハモることを徹底的に拒否するんだったら,という開き直りで編み出した方法論が,12音(ドデカフォニー)音楽だったのではないだろうか?

このメロディもハーモニーもない無機的な作曲法は聴衆に苦痛を与え,作曲家は孤立していったが,メロディもハーモニーも必要ない作曲法は,才能のない人にも「作曲」といえるまがいものを大量生産させることになってしまった。

実は私も学生時代,無調音楽で作曲していたこともあったが,なぜやめたか,いつから純正律に向かい始めたか等は,以下詳しく述べよう。また,1976年というのは何かというと,アルヴォ・ペルトがピアノソロの「アリーナの為に」を初演した年である。ぜひ,その曲を聴いてみて頂きたい。

1976年における転換

ポストモダンの音楽が純正律系をめざすのであれば,後世,1976年が一大エポックメイキング,大転換の年だったことになるだろう。ひとつには,もちろん,アルヴォ・ペルトの「アリーナのために」が初演された年でもあるが,純正律的にはそれだけではない。1990年代になって爆発的なヒットとなり,世界中で300万枚は売れたといわれる,ポーランドのグレツキの交響曲No.3「悲歌のシンフォニー」が,実は1976年に作曲されていた。また,アメリカでファナティックな純正律運動を行い,一種教祖的な存在であった,ハリー・パーチが死んだのもこの年である。しかし,パーチの存在は死後の後継者の一群の啓蒙によって有名になっていく。もちろんその頃の欧米の現代音楽の主流は,相も変わらず無調,12音の平均律跋扈だったが,パーチの後継者,ルー・ハリスンは 1970年頃からさかんにアメリカンガムラン運動を行っている。今日の作風からは信じられないが,彼はシェーンベルクに師事したドデカフォニストだった。グレツキやペルトたちも若い頃はバリバリ前衛の無調派だったのもおかしい。そのハリスン先生,今年亡くなられた。84歳かな?合掌。

さて,そのハリスンが愛した,アルメニア系の孤高の人ホヴァネスの,オーケストラと鯨による演奏の「神は偉大な鯨を創られた」は,1970年に作曲されている。また,ミニマルミュージックによって無調から逃れようとしたスティーブ・ライヒも1970年代から活躍している。今から見ると,1976年前後から無調世界に決別した作曲家が一挙に増えている。一方,日本はどうだったか。

元凶は無調派の台頭?

戦後の日本の作曲界は混沌としていて,小山清茂のような民族派,芥川氏の社会主義レアリズム,黛・諸井両氏の電子音楽に代表される超前衛無調派がひしめいていたが,時代は無調に凱歌を上げ,武満氏の「ノヴェンバーステップス」が1967年に初演されてアメリカで大評判をとったことが社会的事件風にも扱われた。しかし,この成功が,その後長い間,日本の現代音楽を一色にしてしまい,ポストモダンには目もくれない風潮が,大きい目で見れば,日本の現代音楽を不幸にしたといってもよいだろう。

日本も純正律再生の時代へ

さて,私自身の1976年はどうだったのかというと,コロムビアより,日本初のロックヴァイオリンアルバム『タイムパラドックス』を出して有頂天だったというかなりのズレよう。私自身,学生時代に無調の作曲もしていたが,平均律の音程感覚が身に合わず(純正律を教えない,知らない芸大とも衝突を繰り返しエリートコースとも決別),本線のクラシック界からドロップアウトして山本直純の工房に入り,商業音楽まっしぐら。そんな中でのロックアルバムだったから,私自身もそちらの前衛になるつもりでいた頃に,人づてにエプソンセイコーに呼ばれ,純正律と平均律を弾き分ける「ハーモニートレーナー」と対面したことが,その後の私を変えるキッカケになっている。「ハーモニートレーナー」は,西独から特注を受けたすぐれものの機材で,各鍵盤ひとつずつに-15 セント,+16セントの微調整のつまみがあり,自分の耳で純正律和音を訓練できる機材である。私は学生時代の純正律トラウマに目覚め,いろんなレコード会社に純正律の企画を出したが,もちろん一顧だにされなかった。しかし世の中はホグウッドたちのオーセンティック運動の発展形として古楽の純正律演奏が盛んになりつつあったが,1989年のカラヤンの死,1990年のバーンスタインの死が欧米のオーセンティック運動に火をつけた。私は演奏面での純正律にはもちろん興味があったが,作曲とどう結びつけるかに頭がいかず迷っている時,オランダに立ち寄った日本人の友人からペルトの存在を知ったのが1992年。それから首を突っ込んでみると,欧米にいるわいるわの純正律系作曲家。それらに勇気づけられ,日本で初めて出した純正律のCDが1994年だった。

無調的現代音楽の巨匠,J・ケージが死んだのは1992年。日本での大御所,武満さんは1996年に亡くなった。今,日本の現代音楽は支柱を失い,揺れ動いているように見える。1976年にペルトらによって死亡宣告を突きつけられた平均律無調音楽は,今やっと日本でも再考の時期に入っている。

私は去年の末から邦楽の世界にのめりこみ,今,激しく旋法での作曲にいそしんでいる。ひびきとメロディの再構築である。

純正律」という呼称について黒木朋興
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